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7月, 2024の投稿を表示しています

7/25木と7/27土の営業は、祇園祭のためお休みします

下館も元気にドカンと梅雨明け、連日ジリジリと熱線注ぐ、祭りの季節になりましたね。私は今年4月にこの地に来たので、下館の祇園祭ははじめてなのですが、セレクト文庫のある田町交差点付近は、神輿銀座となるようなので、祇園祭中の営業はお休みする次第です。どうぞよろしくお願いいたします。 私は、祭りと読書はどこかでつながっていると思っています。なぜならどちらも日常からの逸脱です。イギリスの歴史学者・ジャーナリストのニーアル・ファーガソンは、人類史を構成する要素は、時間・自然・ネットワーク・ヒエラルキーの4つだと喝破しました。時間と自然は、外部から与えられるもので、人間にとってはなかなか制御できないものです。それに対してネットワークとヒエラルキーは、人が内部から生み出して、権力が執拗に、完全に制御しようとするものです。 人間の社会は、通常モードにおいては、官僚制をはじめとするヒエラルキーと、家族や地縁など強いつながりのネットワークが支配的です。この通常モードをわざとぶっ壊すのが、祭りです。普段は周縁にある得体の知れないものが、祭りでは中心へ躍り出て、人心を掻き回します。得体の知れないものは、ネットワークにおける弱いつながりです。『中世の非人と遊女』 網野 善彦著、講談社学術文庫など読むと、実は、中枢と周縁は、極めて相互に補完的なものだとわかります。 通常モードが掻き回される価値の紊乱から、祭りが終わって再び日常性を取り戻す過程、いわゆる「祭りのあと」こそが、祭りの本質的な機能ではないかと思います。祭りとは、社会にかさぶたをわざわざつくる自傷行為と言えます。 読書もまた、通常モードに凝り固まった脳内に、弱いつながりである著者を密かに呼び寄せて、頭のなかを引っ掻き回してもらう狙いがあります。時間や地理を超えた、得体の知れない作者のテクストを、目から脳へ通過させることでわざと心内に混乱を招き入れ、やがて読書から日常へ戻る「読みのあと」では読む前の己とはどこかが変わってしまう、これどこか祭りと似ていませんか? ニーアル・ファーガソンはあわせて、人類史において、ヒエラルキーがネットワークよりも優位な時代が、20世紀は1970年代ころまで続いたと言っています。20世紀前半の2つの世界大戦は、ヒエラルキー優位(資本主義と共産主義とファシズムの3大ヒエラルキー衝突)によって起こされた戦争であり、...

メタボリズム・カプセルタワー式文脈棚

新刊書店でも古書店でも、多くの書店の文庫本はまずレーベルでまとめられ、発行ナンバー順に並んでいることが多いと思います。神保町の古書店などにいくと、たいてい入り口付近に岩波文庫が色別に並んでおり、探すのは便利なのですが、お目当ての文庫本が見当たらないと、なんとなくその場を離れてしまうことが多いのです。 でもそれって、もったいなくないですか? もはやネット検索で、あっという間に古本は探せる時代です。店頭でやたら検索性を押し出して、出版社の発行秩序に倣う必要なんて、もうないのではないかと思います。とくに、岩波文庫は、色✕ナンバーの「つくり手」順で並べてしまうと、肝心の中身が見えなくなってしまうように感じるのは私だけでしょうか? セレクト文庫ではすべての文庫本を文脈で並べています。店内にひとつだけ置いてある白い椅子に腰掛けていただき、棚全体をゆっくり見渡してほしいです。本棚は、文庫本のサイズしか収まらない寸法の自作棚です。その棚には、白いカプセルに小分けされた文庫本が、内容の文脈でまとめられて並んでいます。放浪について、料理について、第三の新人について、同じ死に方をした作家について…などなど。 私は、2002年から2020年まで、汐留の電通ビルで働いていたのですが、その隣に、中銀カプセルタワービルという、とても目立つビルが立っていました。その中銀カプセルタワービルについて、ウィキペディアから引用します。 "中銀カプセルタワービル(なかぎんカプセルタワービル)は、黒川紀章が建築設計した集合住宅である。2本の主柱に合わせて140個のカプセル型居住空間が取り付けられ、単身者向けの都心のセカンドハウスとしてデザインされた。一方、利用者のニーズにより事務所としても活用された。1972年(昭和47年)、東京都中央区銀座で竣工し、老朽化により2022年に解体された。世界で初めて実用化されたカプセル建築であることに加えメタボリズムの象徴的建築であり、黒川紀章の代表的作品であった" メタボリズムとは、新陳代謝のことで、黒川紀章らによって提唱された、日本発のオリジナルな建築概念です。社会や環境の変化に合わせて、建築や都市も新陳代謝をしながら変化していくべきだとの理念に基づき、この名が付けられました。 セレクト文庫の本棚も、新陳代謝をしながら日々変態(トランスフォーム)してい...

(人)生の短さについて

セレクト文庫のトビラ半分に、岩波文庫と光文社古典新訳文庫「(人)生の短さについて」の古書を大量陳列しています。 「(人)生の短さについて」 著者のセネカはローマ帝国、あの悪名高い皇帝ネロ時代の哲学者、いまからおよそ2000年前に生きていた人です。 タイトルからすると、このセネカという人は「人生はあっちゅーまだよ」と説いているのではないかと思ってしまいますが、読んでみるとそうではありません。どうすれば人生は短くなってしまうのか? を戒めているのです。その戒めさえ守れば、人生は十分に長いと言っています。 "(人生は、使い方を知れば、長い)それなのに、ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは、戦をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。 多くの人たちは、他人の幸運につけ込んだり、自分の不運を嘆いたりすることで頭がいっぱいだ。また、大多数の人たちは、確固とした目的を持っていない。彼らは不安定で、一貫性がなく、移り気だ。だから、彼らは気まぐれに、次から次に新しい計画に手をつけるのだ。自分の進むべき道について、なんの考えも持ちあわせない人たちもいる。彼らは、ぼんやりとあくびをしているうちに、運命の不意打ちをくらう。まったくもって、最も偉大な詩人の述べる神のお告げめいた言葉が、真実であることに疑いの余地はない。いわく、「われらが生きているのは、人生のごくわずかの部分なり」と。なるほど、残りの部分はすべて、生きているとはいえず、たんに時が過ぎているだけだ。" 長い引用となりましたが要するに、我欲や他人によって現在の時間を果てなく奪われたうえに、不確実な未来に不安を抱いてばかりいると、その人生は矢鱈と短くなるよ、という警告が書かれています。 なるほどお金や財産を奪われると大抵の人は怒ったり、取り返そうと...