下館も元気にドカンと梅雨明け、連日ジリジリと熱線注ぐ、祭りの季節になりましたね。私は今年4月にこの地に来たので、下館の祇園祭ははじめてなのですが、セレクト文庫のある田町交差点付近は、神輿銀座となるようなので、祇園祭中の営業はお休みする次第です。どうぞよろしくお願いいたします。 私は、祭りと読書はどこかでつながっていると思っています。なぜならどちらも日常からの逸脱です。イギリスの歴史学者・ジャーナリストのニーアル・ファーガソンは、人類史を構成する要素は、時間・自然・ネットワーク・ヒエラルキーの4つだと喝破しました。時間と自然は、外部から与えられるもので、人間にとってはなかなか制御できないものです。それに対してネットワークとヒエラルキーは、人が内部から生み出して、権力が執拗に、完全に制御しようとするものです。 人間の社会は、通常モードにおいては、官僚制をはじめとするヒエラルキーと、家族や地縁など強いつながりのネットワークが支配的です。この通常モードをわざとぶっ壊すのが、祭りです。普段は周縁にある得体の知れないものが、祭りでは中心へ躍り出て、人心を掻き回します。得体の知れないものは、ネットワークにおける弱いつながりです。『中世の非人と遊女』 網野 善彦著、講談社学術文庫など読むと、実は、中枢と周縁は、極めて相互に補完的なものだとわかります。 通常モードが掻き回される価値の紊乱から、祭りが終わって再び日常性を取り戻す過程、いわゆる「祭りのあと」こそが、祭りの本質的な機能ではないかと思います。祭りとは、社会にかさぶたをわざわざつくる自傷行為と言えます。 読書もまた、通常モードに凝り固まった脳内に、弱いつながりである著者を密かに呼び寄せて、頭のなかを引っ掻き回してもらう狙いがあります。時間や地理を超えた、得体の知れない作者のテクストを、目から脳へ通過させることでわざと心内に混乱を招き入れ、やがて読書から日常へ戻る「読みのあと」では読む前の己とはどこかが変わってしまう、これどこか祭りと似ていませんか? ニーアル・ファーガソンはあわせて、人類史において、ヒエラルキーがネットワークよりも優位な時代が、20世紀は1970年代ころまで続いたと言っています。20世紀前半の2つの世界大戦は、ヒエラルキー優位(資本主義と共産主義とファシズムの3大ヒエラルキー衝突)によって起こされた戦争であり、...
古文庫本と茶器の小さな店。 二坪に満たない店には、物故作家の文庫本のみ並べています。 かわらない一冊、なつかしい一冊、きえてほしくない一冊をセレクト文庫。 妻が笠間でつくる小さな茶器もご覧ください。 しもだて美術館と板谷波山記念館のあいだ。