セレクト文庫のトビラ半分に、岩波文庫と光文社古典新訳文庫「(人)生の短さについて」の古書を大量陳列しています。
「(人)生の短さについて」著者のセネカはローマ帝国、あの悪名高い皇帝ネロ時代の哲学者、いまからおよそ2000年前に生きていた人です。
タイトルからすると、このセネカという人は「人生はあっちゅーまだよ」と説いているのではないかと思ってしまいますが、読んでみるとそうではありません。どうすれば人生は短くなってしまうのか? を戒めているのです。その戒めさえ守れば、人生は十分に長いと言っています。
"(人生は、使い方を知れば、長い)それなのに、ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは、戦をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。 多くの人たちは、他人の幸運につけ込んだり、自分の不運を嘆いたりすることで頭がいっぱいだ。また、大多数の人たちは、確固とした目的を持っていない。彼らは不安定で、一貫性がなく、移り気だ。だから、彼らは気まぐれに、次から次に新しい計画に手をつけるのだ。自分の進むべき道について、なんの考えも持ちあわせない人たちもいる。彼らは、ぼんやりとあくびをしているうちに、運命の不意打ちをくらう。まったくもって、最も偉大な詩人の述べる神のお告げめいた言葉が、真実であることに疑いの余地はない。いわく、「われらが生きているのは、人生のごくわずかの部分なり」と。なるほど、残りの部分はすべて、生きているとはいえず、たんに時が過ぎているだけだ。"
長い引用となりましたが要するに、我欲や他人によって現在の時間を果てなく奪われたうえに、不確実な未来に不安を抱いてばかりいると、その人生は矢鱈と短くなるよ、という警告が書かれています。
なるほどお金や財産を奪われると大抵の人は怒ったり、取り返そうとしたりするのに、時間を奪われても、なぜかスンとしています。とくに日本人はその傾向が強い気がします。時間を奪われることへの無頓着さこそ人生を短くするのかもしれません。狡猾な窃盗ほど、他人のまず時間を盗み、お金は最後まで盗ろうとはしません。GAFAもロマンス詐欺も、マネタイズは最後ですよね。どんどん時間を吸い取られているのに、自分はがんばりやさんだからとか、周りに信頼されているからだとか、と思い込まされる。すると人生は、あっという間に過ぎ去るのです。
ではセネカは、どうすればよいと説いているのでしょう。
"自然は、われわれに、すべての時代と交流することを許してくれる。ならば、われわれは、この短く儚い時間のうつろいから離れよう。そして、全霊をかたむけて、過去という時間に向き合うのだ。過去は無限で永遠であり、われわれよりも優れた人たちと過ごすことのできる時間なのだから。"
ここが、セネカならではの提案だと私は思います。すでに確定している、つまり死んでいる賢者、Dead Authority は、あなたの時間を奪わない。未来を不安にさせることもない。いまを生きる人々は、どうしても、なんとしてでもメシを食わないとなりませんが、過去の賢人は、もはやテクストだけの存在ゆえ、あなたの金も時間も盗めない。盗む必要もない。それに対して、存命の作家は、どうしてもメシを食わねばならないので、1冊でも多く本を売ろうとするし、内容を薄めてでも、原稿料を稼ごうとします。食うためならば、未来への不安や恐怖も煽るかもしれない。しかし、死んでいる人は、もうそんなことをする必要がないのです。Dead Authorsの書いたものは、確定しているがゆえに、あなたから何も奪わないのです。