8月はニッパチなどと呼ばれ、暑さで商いも低調になります。菊池寛はそのニッパチでも本が売れるようにと芥川賞をつくったなんて言われてますが、今となってはその効果もかなり微妙になってきました。ちょっと前までは、「芥川賞だけは必ず読む」っていう人も多少おられたのですが、最近ではそんな酔狂もほぼほぼない気がします。
経産省が今年になって急に、町の本屋さんを守ろう的なことを言い始めましたが、私にはとんちんかんなものにしか思えません。
ハリウッド映画産業で重んじられて、いまもしっかり稼いでいるのは脚本家です。映画館を保護しても映画産業は強くならないのと同じで、システムとして国や大資本が守るべきは本屋ではなく、脚本です。脚本という言葉は、中国から借りてきた言葉ですが、脚本の「脚」には「根っこの」、とか「大元の」という意味があります。
どんなに高度で素晴らしいアートや産業も、その根っこには必ずよい「本」があります。着想はまず文字によって記述され、それが設計図となって、世界を変えるアートやイノベーションに化けていくのですから、文字で書かれたよい「根っこの本」に高い金を支払おうとしない社会は廃れます。
人をコストとみなし、その人の書いた文字なんかに、大金なんて支払うもんか、ネットや経費でタダで聴ける話だけ聴いておきゃいいんだ、とひたすら吝嗇を極めたのがデフレの日本です。いま起きていることは、本屋が潰れているのではなく、脚本そのものが潰れているのです。根っこのテクスト(脚本)がないから、理想もなくなり、よいアートもイノベーションもなくなります。
文字で書かれた素晴らしいものに、惜しみなく金を支払う社会に変えていく必要があります。パワポになってないからとか、映像になってないからとか、アプリになってないからなどと言って、「脚本」にお金を惜しむ会社や人々とは、仲良くなる必要もないのです。彼らはただ、何もしないほうが生き残るだろうといまも信じてやまない、デフレのゆでガエルなのです。
セレクト文庫は、入口に100円本などを死んでも積んで置きません。100円で買える本を喜んで読もうとする人は、私のお客様ではないのです。いまではカーリルがあれば、どんな本でも借りてきて、ロハで読めます。私もカーリルのヘビーユーザーです。でも、手元に置いておきたい大切な本は、百円では買えないと思います。
セレクト文庫は、Google広告も打ちません。ドラッカーがいうように、マーケティングとは、「売らんかな」をムダなものにすることです(the aim of marketing is to make selling superfluous)。多少高くても、多少待たされても、それを買いたいと思わせる活動だけが、マーケティングです。広告やキャンペーンなどのsellingを、マーケティングだと思い込んで、いまもありがたがっている人が多過ぎます。
だから私はsellingは一切やりません。売らんかなで来ていただいても、きっとがっかりさせるだけです。
お店は絶対に決めた曜日の決めた時間に開けています。臨時休業はあらかじめ予告します。8月は13、15、17日は、お盆で休みます。ホワイト社会です。ホワイト社会については、岡田斗司夫のYouTubeを検索してみてください。時間を守らないサービスは、どんなに質が高くても、ホワイト社会においては生き残れないと思っています。時間を守ることは、ホワイトたることの根っこです。
セレクト文庫は、シン・ゴジラで言えばまだ第1形態、オタマジャクシのようなよくわからない生き物です。茨城古書籍商組合に入ることも決めて、これからさらに3年くらいかけて、第4形態くらいまでトランスフォームしていきます。そのための「脚本」は、頭の中にあります。
文字に金を払わないドケチ社会で、本屋などやっても仕方ありませんが、人のゆく裏に道あり花の山、野坂昭如の『乱離骨灰鬼胎草』(福武文庫)を探しているお客様のために、針のない釣り糸をそっと垂らす仕事は、経産省がありがたがっている新刊書の無人書店などよりはるかに意味があることだと私は思っています。